当時、大阪朝日新聞は
大正デモクラシーの先頭にたって言論活動を展開し、特に
シベリア出兵や
米騒動に関連して
寺内正毅内閣を激しく批判していた。1918年8月25日、米騒動問題に関して開かれた関西新聞社通信大会の報道記事の中に「
白虹日を貫けり」という一句があったが、これは
荊軻が秦王(後の
始皇帝)
暗殺を企てた時の自然現象を記録したもので、内乱が起こる兆候を指す故事成語であった(『
史記』
鄒陽列伝。日は始皇帝を、白虹は凶器を暗示)。そのため不穏当だと判断した大阪朝日新聞編集幹部はすぐさま新聞の刷り直しを命じた。しかし、すでに多数の新聞が出回った後だった。後に
新聞紙法の「朝憲紊乱」に当たるとして、当局が大阪朝日新聞の発行禁止に持ち込もうとした。当時、激しい批判にさらされていた寺内政権が弾圧の機会を窺っていたと指摘されている。さらに憤激した右翼団員が大阪朝日新聞社に押しかけ、
村山龍平社長を街頭に引きずり出して全裸にしたうえ電柱に縛りつけ、首に「国賊村山龍平」と書いた札をぶら下げる騒ぎまで発生した。